少年時代の回想

タイムスリップして、子供の頃の友達や遊びの記憶を無理にほじくり返そうとするが、悲しいかなモヤがかかったように、特別な出来事は何も思い出せない。

考えてみるに、私の子供時代の遊びとは、一人で空想しながら絵を描いたり何か作ったりしている独り遊びがほとんどだった。  殻に閉じこもっているように思えるが、それで孤独で寂しいという事もなかった。むしろ、独りでいる時のほうが気楽だった。そのため、しつこく人にいじめられたり、私が人をいじめたりする事もなかったわけだ。

私の性格や特質なのか、他人に対しての関心がなく、したがって自分を取り囲む人々への記憶も薄いという、他の少年たちと比べるとちょっと異質な少年だったのかもしれない。

そんな現在の私は、過去の様々な思考の産物で、わかりやすく極端にいえば絵に対する興味しかなく、人間関係は淡白だが、それでも愛こそ全てだと信じている。来る人は拒まず、去る人は追わない。シンプルこそがベストの単純な人間なのだ。

これから、自分の過去を解剖して検証を試みるが、そんな私の心にだけ存在する特別な人のことは、他人には退屈で興味のないことだろう。

それでも、私が愛したことを未来の人に伝えたい。現在の自分が今何を考え愛しているかで、将来の自分の道が決まるのだと。

母は兄弟がたくさんいて、したがって私の従兄弟も郷里に多かった。私が小学校低学年の頃までは母の御里で、一緒に従兄弟たちと連れだって川でドジョウや鯰や鮒やトゲウオなど捕ったり、夜の田んぼ道を人魂のようにふわふわと漂う蛍を見ながら一緒に歩いたりした。  しかし、小学校高学年になるにしたがい私は自分の世界に浸るようになり、従兄弟たちとも疎遠になっていったように思う。

だが、いまだにその従兄弟の一人からは私の住む千葉で地震や竜巻のニュースがテレビで放映されると心配して電話をくれ、ありがたく思っている。

その従兄弟は私の母の妹の息子だったが、その叔母の家が画家の中川一政さんの実家だと叔母から聞かされたが、私を普通の会社員にしたかった母からは、絵を志す私には“火に油をそそぐようなものだ”とそんな話を一切されなかった。そんなこととは知らない私は、特殊な道を進もうとした一族の異端児だとそれまでずっと思っていた。

父方の従兄弟で、私と同年代の従兄弟は北海道に住んでいて、小学生低学年の頃にその従兄弟たちに手紙をよく書いていたが、その姉の方にはなぜか今もって会ったことがない。

でも、その弟には私がイラストレーターになってから、彼の勤めていた千代田区麹町にある中経出版社の経済誌にイラストを何度も描かせてもらった。

彼はのちに自分の出版社を立ちあげ、ビジネス書のあさ出版の社長となった。

長土塀小学校時代の級友では、加納くんと石田くんが親友で、いつも三人でつるんでいたが、何をして遊んだか、残念ながら憶えていない。  家の近所の高橋くんとはよくチャンバラごっこをしたが、小学生を過ぎてからは会うことはなく、私が上京してから再会したが、その彼も金沢へ戻ってしまった。

高岡町中学校時代の親友は小出くんだった。金沢の小出の芝舟で有名な老舗和菓子屋の息子で、その兄たちはみな秀才で、彼も数学と物理の天才だった。

中学時代に、高校で習う数学の微分積分をやっていた。彼は金沢大学付属高校に進学し東京大学へとエリートコースを進み、私が立川の米軍ハウスに住んでいた頃に彼と彼の奥さんが突然遊びに来て再会し、中学時代はチビだった彼の背が大きく伸びていたので驚いたが、その後カナダへ移住したそうで、それ以来会っていない。

高岡町中学の時に市田くんという級長がいた。市田くんは金沢警察署の警視正の息子だったが、絵が好きな事から美術の川岸先生の計らいで、市田くんと私が金沢の民間ラジオ放送局MROのスタジオで、二紀会の画家である奥田きく子さんと対談する番組に出演することになった。

市田くんと一緒に学校から放送局へいく約束をしたが、待ち合わせ時間の手違いから、私はスタジオに入ることができず、私の声は放送されなかったが、奥田きく子さんはその時スタジオ外のベンチで待っていた私に名刺をくれ、美術の事を色々と話してくれた。

市田くんも私と同じ高校へ進学し、機械科にいたようだが、その後会っていない。

石川県立工業高等学校は日本で最も歴史のある工業高校で、私たちは県工と呼んでいた。

デザイン科の教師には蒔絵の人間国宝の寺井直次先生がいて、直接指導を受けた。また、県工の卒業生には蒔絵の人間国宝の松田権六さんがいて、県工へ講演に来てくれた時に、自分が見たものをカメラで撮影するように記憶し、そのイメージを後で絵に描く練習をしたというお話などされ、そのイメージを記憶し再現させるという神技に驚いた。

県工時代には美術クラブに所属していて、学校の授業も美術が主だったが、放課後も美術づけの毎日だった。美術しかない私にとっては、水を得た魚のような時代だった。

二年先輩に庄田常彰さんがいて、部活で後輩を指導していた。といってもスポーツ系にありがちな上下関係は全くなく、のんびりしたものだった。

当時、庄田さんの絵を私は見たことはなかったが、絵ではなく言葉でいろいろと影響を受けた。  たとえば赤い林檎を見ても、それは決して赤色だけでなく、複雑な様々な色が混ざっている、などと印象派の絵の解説を交えて話していた。それで私は、赤い林檎の陰に青色を、ハイライトに黄色を塗ったりしていた。

後年、東京で庄田さんの個展を拝見して驚いた。それはアカデミックな絵ではなく、シンプルなフォルムでカラフルな色彩の絵だった。伝統的な金沢出身でも、私と同じような人がいたと嬉しかった。

当時の県工は、デザイン科と繊維工学科に女子もいたが、他の機械科や電気科には女子はいなかった。

デザイン科の実習は普通の学科よりも多くあり、実習の時の机は大きな二人がけだった。その時いつも隣に座っていた女生徒がいて、実習で使うポスターカラーの瓶の蓋が固まり開けられず、困っていたので私が代わりに開けてあげた事がきっかけとなり、言葉を交わすうちに自然と親しくなった。

彼女の中に自分の同類を見たためだろうか、彼女も他の女子と比べると少し変わっていたように感じた。

グループには加わらず、単独行動をして、あんまり女の子っぽくなかった。私の母と同じ名前で、肉嫌いなところは同じだったけれども、体型と性格は全く違っていた。母とは違い物静かで、背が高くほっそりしていた。

(つづく)

小学生時代に作った木製円形プレート 1957年

1957

1957,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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