ボーイスカウトと断捨離

こんな集団行動の苦手な私が、なんとボーイスカウトに入団していた時期があった。小学校五、六年生頃の話である。  ある日、鉱石ラジオ作りが趣味の友達の家に遊びに行ったら、鼻をすすりながらハンダゴテで特有のニオイをさせて複雑な配線をつないでいた。その友達から町内の寺がボーイスカウトの団員を募集しているので一緒に入らないか? と誘われたのだ。  夕食時、私は父にそのことを伝えると、父は即座に入れ! といった。戦争中に伍長だった父は、絵ばかり描いているヘナチョコの息子を軍隊式スパルタで鍛えてくれると思ったらしい。

しばらくして、カーキ色の帽子と制服を買ってもらい、放課後は寺に集合して団長の住職のもと、小指の爪に親指を重ねる三指の敬礼から始まり、「三つの誓、名誉かけてボーイスカウト掟まもり、人のために備えよ常に」などと、今でもすらすらいえるほど覚えてしまったが、有名な外国の曲に仏教の奉仕の教えなどを替え歌にしたような変てこな歌詞を団員皆で合唱したり、公設グラウンドの催しや百万石祭りの行列に参加したりしていた。

夏休みに、ガールスカウトとカブスカウトも加わる琵琶湖の湖畔でのジャンボリー大会が開催されるというので、その準備のために鉱石ラジオの友達は無線機のようなものを作り、グループがハヤブサ団だったので私は団旗のデザインを任され、旗布に絵の具で隼の図案を描いたりしていた。  鉱石ラジオの友達は、私が今まで見たこともない様々な電気器具や鉛や磁石などが散乱した狭い部屋にいて、足の踏み場もないくらいだった。今から思えば、本当はボーイスカウトの活動よりも、その友達の部屋に惹かれたので父に友達のことを話した結果、なんとなく入団することになっただけかもしれない。  その友達がラジオを分解して取り出したという磁石などを私は貰って、自分の宝箱にしまっていた。

その宝箱については、私の困った収集癖を告白しなければならなくなる。  我が母にはガラクタとして捨てられてしまう無価値な物ばかりだが、空き瓶や蝉の抜け殻や小動物の骨、さまざまな形の綺麗な石や何かの機械部品などを、縁側の隅に置いたミカン箱いっぱいに集めていた。  私にとっては静物画を描くためのモデルであったが、もしかしたら単に面白いと感じた物を後で何かの役に立つと思って集めていただけかもしれない。

そんなことにのめりこみ過ぎていたから、夏休みの自由研究を作る時間がなくなってしまった。夏休み帳の宿題は朝の涼しい時に毎日少しずつしていたから大丈夫だったが、夏休みの自由研究は何をしたらよいのか、さっぱりわからなかった。  他の生徒は親に手伝ってもらったり、作ってもらったという工作物や昆虫採集の標本などを学校へ提出していたが、私の親はそんなことには無関心で、私も自分だけで何とかするのが当たり前と思っていた。  そんな気持ちで、壁にぶらさがっているカレンダーの残りの日数を数えながら、どうしょおか!と焦って叫んだところ、美の女神が微笑んだのだ。

それは、そのカレンダーに印刷されていた女性の顔写真だった。きれいな人だなぁ…、当時の私は感動をすぐに絵に描かずにおれなかった。スケッチブックとクレパスを取り出すと夢中でその顔を描いた。  そのスケッチブックには、さまざまな静物や風景や空想画などを、毎日一枚以上は描いていた。そんな夏休みに描きためた思い出のスケッチブックを、私は自由研究として学校へ提出したのだ。  ある日、たまたま母がそのスケッチブックをペラペラとめくりながら私を呼びつけた。これは誰や? と、聞かれたので私は目の前のカレンダーを指差したところ、何を思っていたのか母は珍しく無言でしばらく固まっていた。

主に小学生の頃はクレパスで絵を描き、中学生の頃はそれに水彩絵の具も加わり、高校生では油絵の具も母に買ってもらった。  私は嬉しくて、キャンバスと油絵の具一式を持って、風景を描きに暮れなずむ家々の灯りがともる頃まで金沢の町をあちこち出かけ、歩きまわっていた。  私が住んでいた長土塀通りの裏道を写生した油絵は今でも持っていて、その他にも当時無料で入園できた兼六公園や、その近くの坂道や護国神社の鳥居もイーゼルを立てて油絵で描いた記憶がある。

高校受験の際に私は滑り止めのつもりで、母の勧める私立実践商業高校も受験したが、その実践商業高校に受かった時、高校を卒業したらどこかの会社に就職して休日に絵を描けばいいよ、日曜画家だ、と母は決め付けるような強い口調で私にいった。  母は私を商人にしたかったのだろう。だが、私は商売には全く向かないタイプなので、秘かに志望した県立工業高校のデザイン科に受かり入学してしまった訳だが、もしも、あの時にデザイン科を落ちていたら、他の仕事をしながら日曜日に絵を描けるというほど仕事というのは甘くはないし、今頃私は絵の道をあきらめていたかもしれない。  私は幸運にも、絵を描くことを仕事にできたから、今までどこの会社にも就職することなく自由業として、何とか絵を描き続けてこれたのだろう。

上京して阿佐ヶ谷美術学園時代に金沢へ帰省したある日、高校時代に描いた長土塀通りの裏道を描いた油絵が、私が知らない間に額装されて実家にあった。  私の描いた絵に額まで付けて大事にしてくれたのかとおおいに感激し、当時同じ時期に描いた護国神社の鳥居の絵はどこにあるのか、と探したが見当たらない。母に聞いたところ、知り合いに売ってしまったと、あっけらかんといわれ大変にショックを受けた。  誰に売ったが? と、聞いても無視され、詳しいことは何ひとつ聞けなかった。仕方がない、油絵の道具を買うお金は母に出してもらったのだからとあきらめたが、内心これはまずいと思った。裏道の絵を額装してくれたのも、これを次に売るつもりだったのかもしれない。

母はひどく潔癖なカタズケ魔で今でいうところの断捨離なのか、物をすぐに処分してしまうため、家にあった本やボーイスカウトの帽子と制服や、集めたいろいろなガラクタオブジェと私の幼い頃の玩具などは、帰省時に何ひとつ残っていなかったのだ。  私の描いた絵が多少残されていたのは、本当に奇跡に近い。その時あった裏道の油絵とスケッチブックやその他の絵は、東京へ戻るときに一緒に持って行ったのはいうまでもない。

(つづく)

小学生時代に描いたクレパス画 1958年 スケッチブックにクレパス

1958

1958,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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