路地裏に遊ぶ

高校を卒業するまで育ち慣れ親しんだ金沢と、その長土塀通り界隈が私の原点であるが、また、愛憎の確執が今なお強固に塗り込められてもいる。  高校時代に描いた長土塀通りの路地裏を描いた油絵を今にして眺めていると、忘れてしまいたいことや、それでも我が郷里と思うことが走馬灯のように脳裏を駆け巡り、タイムスクープして複雑な心境になる。

この絵の路地裏の奥には長土塀通りがあり、金沢特有の黒い瓦屋根ばかりのしもたやが立ち並び、ところどころ江戸時代の古い土塀が崩れたまま部分的にまだ残っている風情があった。  路地裏の角には大人たちが東様と呼んでいた、当時の金沢では威容を誇る異質で珍しいビルがある。そのビルの角を左に行った数軒先の長土塀通りに面して、私の住んでいた長屋のような借家があった。

すぐ近所に自転車修理屋と製箱屋と洋服仕立て屋と和菓子屋と、母が勤めていた給食センターなどがあり、反対の右に曲がって真っ直ぐ行くと私の通った長土塀小学校がずっと先にあり、路地裏の突き当たりは長土塀通りに面した鋳物屋と染物屋で、その隣に本屋兼文房具屋や玩具屋兼駄菓子屋などが並んであった。  越後屋という近所の和菓子屋は、二階部分をすっぽり覆うように大きな看板を付けていた。鶴がまるくうずくまったような小判形で赤い丹頂と黒い尾羽の色をつけた中身は、白餡の鶴の子という名前の和菓子を売っていた。  母がその白く上品な鶴の子を好み贔屓にしていて、親戚の人が来るたびに私を越後屋へ使い走りさせてお茶うけにだしていた。

路地裏に細くて長い煙突が立つ、錆びたトタン壁のバラックが立ち並んだところに貸本屋があった。その貸本屋の向かいは子供らの遊び場にしていた空き地があり、その空き地の入り口にイーゼルを立ててこの油絵を描いたのだが、貸本屋の左先には車が往来する大きな昭和通りに出て、途中に立派な門構えの古い寺があった。

その寺は静かでいつも門が開いていて、大きな樹々がある境内へ小学生の夏休みの朝、幼なじみで白いランニングシャツに紺の半ズボン姿のクンちゃんと蝉取りに行ったものだ。  寺の裏は墓地になっていて、更に鬱蒼として苔むした樹々の下に古い墓が立ち並び、昼でも薄暗くて陰気なので子供らは誰も近寄らなかった。  ある早朝に、細い竹棒の先に白く長い布袋の付いた蝉取り網を寝ぼけ眼で旗のようにひらひらさせながら、朝靄の中ぽっかり空いた異次元の入り口のような寺の門をくぐっていくと、裏の墓地の方からすすり泣くような奇妙な女の人の声が漏れ聞こえてきた。  誰もいないと思い込んでいたクンちゃんは、驚いて蝉取り網を落とし細い腕で私に抱きついてきた。二人で固まってじっと様子を窺っていると、今度は押し殺したような恐ろしい含み笑いが小さく聞こえた。  おばけだーっ! と私たちは脱兎のごとく逃げ帰った。後年知った噂では、ラブホテルのない時代、その墓地は男女が睦言を交わす秘密の場所となっていたそうだ。    そのクンちゃんはとてもおとなしい性格で、路地遊びで近所の悪ガキたちと一緒に、我々がペッタといっていた厚紙に絵柄が印刷された札を地面に投げつけて、風圧などで相手の札がひっくり返ると自分のものになる遊びをしていたが、いつも皆にとられて泣きべそをかいていた。  私はというと、お気に入りの図柄のペッタを集めていて、自分の気に入った図柄の札の裏面にろうそくのロウを厚く塗り重くしていたので、めったに取られることはなかったが、ロウのためか鈍重で相手の札をひっくり返すことや、相手の札の下にもぐりこむテクニックもつかえなかった。  冬には豪雪を利用してカマクラを作ったり、小さな竹スキー遊びや、タケポッポという、太い竹を半分に割り下駄の寸法で鼻緒を付けたものを霜焼けで赤く腫れた素足に履き、鼻汁を垂らしながら凍った路地を滑り遊んでいた。

さて、その当時の金沢の町並みには違和感のある不思議な東様のビルだが、町内の子供会の集まりで子供らは時々中に入れてもらったことがある。  いつも、決まって赤色の分厚い絨毯が敷き詰められただだっ広い神殿のような部屋に通され、子供らは大人の人が来るまでそこに静かにして待たされ、その間に珍しい絨毯を指でなぞり、絨毯の毛足を倒し何か落書きするように遊んでいた記憶がある。  それにしても大人が敬意を込めて呼んでいた東様とは、政治家なのか、教祖なのか、実業家なのか、いったい何者だったのかは謎のまま、とうとう今に至るまで私は何も知らない。

東様の裏にあったバラックの貸本屋には、同学年の女の子が母親と二人きりで住んでいた。  その女の子は手足が大変細くて弱々しかったが、秀才として近所で知られていて近寄りがたかった。その前の空き地で他の子供たちと草野球をしていると、時々見かけることがあったが、私の母や妹とは違って、華奢で優しい感じがして子供心にも何だか気になった。                                    そして、その貸本屋で借りてきては、手塚治虫さんの諸作品をはじめ、長谷川町子さんのサザエさんや横山光輝さんの鉄人28号、阪本牙城さんのタンクタンクローなど様々なマンガを小学生の頃までむさぼるように読み、キャラクターを熱心に模写していたが、ボーイスカウトと同様に中学になるとマンガの本は勉強の邪魔になる悪書だと母に禁じられてしまい、素直な私は従ってしまった。  それ以来、マンガは私の生活から消えてしまったが、もしも、そのままマンガに親しむことができていれば、私は今頃イラストレーターではなく、マンガ家になっていたかもしれない。

上京し、更に千葉に転居した後年、車を運転して金沢へ行ったおり、懐かしくなって子供の頃に住んでいた長土塀通りの界隈を車で通ったことがある。  子供の頃にはとても広い道だったと思っていた昭和通りは、それほど広い通りではなく、長土塀通りになると車がやっと通れる狭さだったので唖然とした。   長土塀通りの地名はその後、芳斉町に編入され変更されてしまい、昔の面影はなくなってしまった。

(つづく)

高校生時代に描いた油彩「路地裏」F12号(50×60.6cm)

1963

1963,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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