阿佐ヶ谷美術学園に入学するも・・・

阿佐ヶ谷美術学園の時代は、幼虫の私が金沢というサナギから羽化し、変身しようとしている二年間だったと今にして思う。

上京の朝、最初に感じたのは空気が金沢とは全然違っていたということだ。ウェットからドライというべきか、暗から明か、とにかく人がいっぱいで、変化と色彩に満ち溢れ万華鏡を見ているようにキラキラして、ホームシックになることもなく、毎日が夢のように過ぎていった。  中野坂上の下宿から阿佐ヶ谷美術学園に通うことになったが、金沢にはなかった地下鉄に乗ることも新鮮な気分だった。

現在では阿佐ヶ谷美術専門学校という名称になってしまったが、当時はのんびりとした独特の雰囲気があった。  一年の時は、大藪先生という先生がおられた。大藪先生は「汚れた英雄」で有名なハードボイルド作家の大薮春彦さんの兄弟だと聞いていたので、印象に残っている。  ハンサムで陽気な先生のもとには、いつも数人の黄色い声が取り囲んでいたが、その中に横浜出身の杉浦くんがいた。彼は今や映画評論家タレントのおすぎとして有名だが、当時もおすぎと呼ばれ皆の中心にいて人気者だった。  他に実家が東京の人もいたが、ほとんどは私と同じ地方出身者だった。その中でなぜか杉浦くんだけが当時から私の事を「あおいちゃん」と呼んでくれた。  一度、彼らと伊豆諸島の神津島へ旅行に行ったことがあり、彼はお土産にクサヤを買い、私が強烈な悪臭に顔をしかめると「あら、知らないの? 酒の肴に旨いのよ」と、けろっとしていた。  彼は私が東京で個展をするたびに、律儀に「おすぎより」と書かれた札の付いた豪華な生花を贈ってくれ、その友情に深く感謝している。

地方出身者は親の仕送りで生活していて、私も親から毎月書留で送ってもらっていた。その度に親に手紙で返事をして、近況やお願い事などを書いていたがある時、私が反抗的でわがままなことを手紙に書いたばかりに、翌月から仕送りが届かなくなり、これでは困るとアルバイトをいろいろ始めた。  初めは、阿佐美の友達である藤井くんが誘ってくれて、一緒に青砥のイトーヨーカードーで、ポップ広告のレタリングの文字書きをした。  藤井くんとは初めの頃は、つかずはなれずの関係だったが、彼は私と正反対の性格で、しだいにプラスとマイナスが引き合うように友達になった。  彼は素直で純朴なのに逞しい庶民的生活力を持っていて、現実的な考え方が出来る話し上手で、厳しい東京生活の中で夢幻ばかりを追いかけている自分にとって、なくてはならない存在だった。

今と違って、当時はスーパーの店内に出ている表示札やポップ広告は全て手描きで、決められた独特の書き文字スタイルがあった。筆幅の違う何本かの平筆でポップ描きをするのだが、気さくな年上の男性が教えてくれ、その人の四角っぽい独特の書体の書き方を真似て書いていた。  スーパー内の奥まった部屋とはいえないような、荷物のいっぱい置かれた狭い雑然とした空間で、その男姓と藤井くんと私の三人が店長の商品値段などの指示のもと、黙々と退屈な表示札書きをこなしていた。  その男性は休憩時間に、我々にクラシックカーの絵が描かれた小さなマッチ箱のコレクションを、荷物箱の上に大事そうに並べて見せてくれた。

次のバイトは高円寺で、先の藤井くんと歩いている時にビルの壁に張られたアニメ描き募集のチラシを見つけ、青砥よりも近くて歩いて行け、交通費もかからないので、彼と共にそのビルの階段を駆け上がり部屋に入ると、数人の女の人が整然としたビルの一室でアニメーションのセル画を描いていた。  これは薄いセルシートに指紋などの汚れを付けないように白く薄い手袋をつけて、ガラス絵の要領でセルシートの裏に線描きされた絵に、アクリル絵の具で均一に塗り絵をする仕事だった。  ここはアニメスタジオの下請けのようなところで、白く薄い紙に挟まれたセルシートを次々に手渡され、そのセルシートはアニメ物語の脈絡ない順に色を塗っていて、どういう作品なのかもわからなかった。たぶん当時の子供向けテレビ番組のアニメだったのだろうと思う。  このような仕事は比較的簡単だったが退屈で、あまりお金にはならなかった。

今度は友達の紹介で、私ひとりが阿佐ヶ谷の看板屋に雇われたが、何か描くなどはさせてもらえず、もっぱら看板の小さな色見本を依頼主へ届ける使い走りの仕事だった。  看板屋といっても小さな町の会社といった感じで、事務室のおばさんが私に毎日これを持って行ってくださいと指示をし、その場で相手の名前などの記入された手描きの地図とバス代を渡されて、様々な会社へ色見本を運んでいた。

ある日、外回りがなくて看板屋の会社の中をぶらぶらしていると、いつも黒い幕を降ろしている暗い大きな部屋がある事に気がつき、中に入ってみた。  そこには、事務のおばさんが美大出身だよと言っていた偏屈そうな男が幻灯機のようなもので大きな白い看板に映画の印刷チラシの写真を大きく拡大投影し、その映った画像をトレースし、泥絵の具で看板絵として仕上げていた。  私が動くと、その男は押し殺したような声で「動くな!」と陰気な感じでいった。私が動くと床板が微妙に振動して幻灯機が揺れ、その影響で映した画像がずれてトレースできなくなるからだと察知し、大きな看板絵を描く秘密を覗き見た思いがした。  看板屋がどのような方法で、大きな看板絵を描くかの技術的な事を知ることができたが、何か描くなどの仕事は結局させてもらず、徐々につまらなく思えてきて、新聞の小さな三行広告で版下を描く仕事を見つけたので、このバイトはあっさりやめてしまった。

次はその広告の、九段にあった絵島アトリエで版下の仕事をした。これはちょっと難しく根気のいる本格的な作業で、アルバイト感覚ではできない請負仕事だった。  厚口のアートポスト紙に、様々にペン先を研ぎ加工した数種類の丸ペンで教科書などの図解や罫線やマークや絵図などを、黒インクの線で描き込むのだが、ハミダシ線などの修正はカミソリの刃でインク線を削り取る細かい神経のいる作業だった。  私の仕事は社長の江島兄弟に気に入られ、私は電話を持っていなかったので、毎回江島の兄さんから電報で仕事の依頼をされると、九段まですっとんで出かけていた。絵島アトリエという社名は、本名の江島の「江」に絵画の「絵」を引っ掛けたものだったと思う。  江島兄弟の兄は絵島アトリエを経営している痩せた神経質そうな人だった。いつも営業マンのようなスーツを着ていたが実は職人気質の人で、絵島アトリエの嘱託にならないかと誘われた。  弟は文京区でエジマ企画というデザイン事務所を経営し、小太りでいつもラフな服装の人当たりのよい人で、二科会のデザイン部にも連れて行かれ入会を勧められたが、二科会のデザイン部はすこし古風な感じがした。  私は職人仕事をこの先ずっと続ける気はなく、デザインだけもする気がなく、やはり新しい感覚の絵が描きたいと思っていた。

(つづく)

空気遠近法で描いた菊の鉛筆画

1965

1965,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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