学業と仕事の板ばさみの中で

二年の担当教師は浅川演彦先生になり、生活に窮していた私は、浅川先生に仕事のことを相談すると、先生は突然、手元にあった雑誌の適当な広告写真ページをビリビリと破り取り、そのページをポンと私に渡して、「この写真を鉛筆でリアルに描いてこい」といわれた。  翌日ケント紙に描いた絵を学園に来た先生に見せると、先生は自分の勤めているスタヂオ・ユニの仕事をいろいろと描かせてくれるようになった。

スタヂオ・ユニは当時、地下鉄六本木駅近くの喫茶店「アマンド」の角を曲がった坂道を降りる途中のビルにあり、私が浅川先生に連れられて行くと、仕事場の中はコピーライターやデザイナー、イラストレーターなどの各人の机がパネルで蜂の巣のように仕切られ、その中でデザイナーは写植文字をペーパーセメントで細かく切り貼りしたり、イラストレーターの毛利彰さんや平松尚樹さんなどが黙々とイラストレーションを描いている忙しい雰囲気だった。  クリエイティブの現場も今はパソコン作業が中心となり、仕事場も整然としているが、当時は道具の数も多く、またデザイン作業で出る紙ゴミの量が半端ではなかったため、そんな道具と紙の山に囲まれての作業であった。

それから、竹橋の毎日新聞社の広告宣伝部などにも連れていってくれ、宣伝部担当者などに紹介してくれた。  初めに任された新聞広告イラストは、ペンで細密に仕上げた。これは版下仕事をしていたため、その技術が大変役に立った。  それからというもの、仕事の方が忙しくなってしまい、とても学園の課題をやる余裕がなくなってしまった。

そんなある日、仕上げた絵をスタヂオ・ユニに届けるため地下鉄に乗っていると、隣の男性が新聞を座席に置いたまま下車して行った。何気なくその新聞をとりあげ見ていると、ポスター募集の小さな広告が目にとまった。  それは当時流行っていたグループ・サウンズのブームが少し下火になっていた頃に、新しいグループ・サウンズのザ・ライオンズを売り出すため東芝レコード(キャピトルレコード)が、ポスターのデザイン画を募集していたのだった。  地下鉄のシートに座ったまま、ポケットに持っていた小さなメモ帳ほどのスケッチブックで、私は即座にアイディア・スケッチを描き始めていた。

その東芝レコードのグループ・サウンズ「ザ・ライオンズ」ポスターコンクールで特賞を受賞し賞金を得た。それはたちまち学園の仲間に知れ渡ってしまい、友達は「その金でハワイ旅行に行こうか、アメリカにだって行けるぞ」と自分のことのように喜んでくれたが、浅川先生が学園をやめたっていい、といってくれたことや、郷里に残してきた高校同級の彼女のことを思い出した。

その瞬間、こんな懐かしい記憶が蘇って来た。  高校の放課後、美術部は天気の良い日は外へ写生に出かけたりすることもあったが、その日は部員皆でアグリッパの石膏像を囲んで、定例の石膏デッサンをしていた。  夕闇がたれこみ薄暗くなり、石膏像の陰影が見えづらくなったので、描くのをあきらめ他の部員はもう皆帰ってしまった。  私はそれでもデッサン室の電灯をつけて、昼の光の具合を想像しながら自分が納得できるまで描いていると、誰かの足音が近づき引き戸を開けた。  職員室からデッサン室の灯りがついているので見に来た、教務助手の長谷川さんだった。いつものように私が独りでいたので安心したように、「もう、そろそろ帰れよ」とお決まりをいって職員室に戻っていった。  そのまましばらく描き続けていると、再びパタパタと足音が近づいてきたので、長谷川さんがまた来たと思い、私はデッサン用紙を丸め、イーゼルと木炭や練りゴムなどを慌てて片付けはじめた。

ドアがガラッと開き、真っ赤な手をした彼女がなにやら持って入ってきた。私が唖然としていると、「作ってきた」と息を荒げながら傍らに置かれた台の上に、布巾のかかつた皿と割り箸を添えてそっと置いた。  赤い生姜がちりばめられた散らし寿司であった。「食べて」とすすめられ、私は生姜で赤く染まった彼女の手を見ながらほおばると、「今、作ったばかりなんや」と、彼女はほおづえをついて、私の顔を覗き込みながらいった。  彼女の家から歩いて30分以上はかかると思うのに、これを持ってきてくれたのかと感激し、「こんな旨いもん食べた事ないわ」というと、「こんなん、いつでも作ってあげる」と彼女は笑った。

そんなことを思い出すと突然、とてつもなく寂しい気持ちがこみ上げて来て、思い余って郷里にいる彼女に手紙を書いた。  するとしばらくして、東京に行く、という彼女からの返事が届いた。

(つづく)

ザ・ライオンズのポスター(1968)

1968

1968,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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