同棲の日々

もう彼女とは会えないと思っていた。  高校卒業後、お互いの進路が違い、彼女の母が京都出身なので彼女はそのツテで京都の清水焼の窯元へ内弟子として住み込むことになっていた。  私は東京へ行くと決めていたから、お別れの思い出に二人だけで能登へ一泊の旅に行こうと彼女がいい出した。  それまで私は旅などしたこともなく、困って思い悩んでいるので母に問い詰められ、しぶしぶ打ち明けると、「とんでもない!」と即座に叱られた。「結婚前の女にとってはキズモノになるということや」と、母は旅行に強く反対した。

しかし行動的な彼女は、沢山の即席麺などの食料とテントなどを自分で用意してきた。もう仕方がないと思い、彼女の持ってきた重い荷物を私が背負い、彼女と金沢駅から電車に乗り七尾へ向かった。  能登半島一周のつもりで、何とか輪島までいき、打ち寄せる日本海の荒波が岩に砕け水泡となって舞い、潮の香りが漂っている中、珠洲の方へ歩いていき途中の垂水の滝の海岸にたどり着くと、若者たちの数個のテントが散在してあった。  男女のカップルは私たちだけだったので、人目を避けるように波打ち際の隅の方でテントを張った。私たちのテントの周りにだけ地元の小さい子供らが近寄ってきて、彼女と楽しくはしゃいでいた。  夜中テントで寝ていると彼女が突然私を起こし、寝ぼけ眼で下のシートに手をつくと海水で濡れていた。  慌ててテントから飛び出し、あたりを見渡すと、私たちのテントに満ち潮の真っ黒で不気味な海が目の前に迫り、荒波がテントをいまにも呑み込もうとしていた。

慌ててテントをたたみ、荷物をまとめて二人は近くの民宿へ駆け込んだ。夜中だったが民宿のおばさんは快く迎えてくれた。思わぬハプニングで民宿代が余計にかかってしまい、朝食をとりながら彼女がいった。「大変や、帰りの電車賃が足らんがや…」  私は即席麺をたくさん抱えて、まだ砂浜でテントを張っている若者たちのところへいき、その即席麺を半値で売った。若者たちは「いいのけ?」と私の顔を覗き見しながら、喜んで全部買ってくれた。  お金も心細くなり、もう続けることができないので金沢へ帰り、この旅で私は初めて物静かだけでない、彼女の全てを知ってしまったような気がした。

私は東京中野坂上の下宿で、寂しさと懐かしさのあまり、そんな彼女に手紙を書いた。すると、彼女からの東京に来るという思い切った返事に戸惑い、よく彼女の親が許してくれたと感激しながら、上野駅に迎えに行った。  彼女は、持っていた美術と文学の全集すべてを売ったお金で上京してきた、といった。  ふたりで駅の日本食堂でカタヤキソバを食べていると、頭の中を井沢八郎の「あゝ上野駅」が流れてきて、なぜか感動がこみあげて来て思わず泣きそうになった。

その中野の下宿から、高円寺のドブ川ぞいにある朝日荘というアパートへ引越しして私たちは初めて同棲した。隣の部屋は畳職人の若い夫婦で、何やかやと私たちを気づかってくれた。  親の大反対を押し切り、駆け落ち同然だった私たちに仕送りなどあろうはずもなく、友人から紹介された喫茶店のマッチのデザインや、店のロゴのデザインなどのアルバイトをしても、稼ぎはたかが知れていた。  生活は次第に困窮し、配給の米も買えずパン屋でパンの耳を貰って来て、毎日安いモヤシだけを食べ続けていた。  そんな極貧状態の中、彼女は捨て猫を拾ってきた。自分たちと同じようで哀れに思ったのだろう。猫は仕事中の私に甘えて膝に乗ったり、肩に乗ってきたりした。  そんな中で私はノイローゼになり、生きる気力を失っていた。仕事は手に付かず、どんどん悪いことばかりを考えてしまう。仕事のことや将来ことを考えると、そのうち手がぶるぶると震えるようになって来た。  その時なぜそうなってしまったのか、今の私には思い出すこともできないが、発作的に都市ガスの栓をひねろうとした私に彼女が気づき、「なにするがや!」と叫んだ。  彼女は慌てて隣の若夫婦に助けを求めた。畳職人が部屋に飛び込んできて、私の頬をパンパンと叩き、「しっかりしろ!」と一喝した。  私はやっと我に返り気がついた。そして、愚か者の私はその場で大声をあげて泣き崩れた。その傍で、彼女も泣いていた。   彼女は親に説得され、猫を連れて金沢へ戻っていった。

その高円寺のアパートから、後述するが学友の藤井くんと間借した杉並の岩田さんの家を経て、地下鉄丸の内線の方南町駅から歩いて30分ほどの、民家の奇妙な三角形の一部屋を私は一人で間借りした。  一階に家主の木村さんという小太りな五、六十代のおばさん一人の東部屋と私の西部屋があり、急な階段をあがった二階の二間も貸していて、二階の東部屋は小さな子供ひとりの若い夫婦と西部屋はマッサージ師の独り者がいた。  おばさんは昼間はデパートへ勤めに行き、着物売り場の着付けを担当していたらしい。二階は綺麗な若い奥さんと泣き虫の男の子だけで、マッサージ師の男は仕事でほとんど見かけなかった。おばさんの部屋へは、月に一回程度、白髪の紳士が尋ねて来ていた。  私は日中ほとんど部屋にこもって様々な絵を描く仕事をしていたが、後にその西部屋で彼女と再び同棲することになる。

子供の頃に遊び友達だった近所の高橋くんも上京していて、洋服のセールスマンとして外回りのついでに、この三角部屋へよく遊びに寄ってくれた。  ある日、彼から自分の仕事先の洋服店のロゴを描いてくれと頼まれ、イラスト付きのロゴをアート紙にペンで描き、その一枚の版下を年末の押し迫った頃に、帰って来てくれた彼女と二人で杉並の洋服店へ歩いて届けに行ったことがあった。  その時、私たちの顔を意味ありげにじろじろ見つめる店主から画料を手渡された。訳ありげなカップルだと店主には映ったのだろうか

(つづく)

阿佐ヶ谷美術学園の学生募集ポスター(中退後描かせてもらった絵・キャンバスにアクリル)

1974

1974,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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