出会いの連鎖反応

仕事も徐々に増え、独学だったイラストレーションをもっとよく勉強してみたいと思い、通信美術教育の講談社フェーマス・スクール(KFS)を受講した事があった。 最初の頃の課題で、提出した作品が全てよい成績に評価されたが、仕事をしながら続けることが出来なくなり、学費だけを払って中断してしまった。

それでも、KFSが選んだ八人でグループ展をやらないかとKFSから誘われ、1970年に「エディトリアール・アート展EightGuys」に私も出品した。 銀座のギャラリーおかべで開催され、銀座の画廊に入ったのは初めてで物珍しかった。会場には様々な人が訪れ、外人の方もチラホラ見かけたが、会場でひとりの外人男性から片言の日本語で、「アナタノ絵、カイタイ」と声をかけられた。 私はOKと答えて名刺を受け取った。「ココニデンワクダサイ」。私はまた男性にOKとだけ答えると、男性は会場の雑踏に掻き消えてしまった。その名刺を見ると、日仏学院の教授と書かれてあった。

展覧会が終わり、出品作品の整理をしていて名刺のことを思い出し、電話をした。私の出品作から二点の原画を買うから、私ひとりで持ってきてほしいとの事だった。 私は指定の作品を持って、教授のお住まいにしていた新宿の江戸川アパートへ行った。古びていたが洒落た造りの居間に通されると、いきなりはげしく抱きしめられた。すごいハグにびっくりして、私は心臓の鼓動がおさまらないまま、指し示されたソファに腰を下ろした。 教授は私の横にピッタリ並んで座り、私の膝に手を置いたので、私はもしかしたら、と思い警戒した。  しかし、教授は私の絵についてご自分の立派な見解を話され、私の名前のマークやロゴなども作ったほうがよいと色々なアドバイスをしてくれた。そして、しばらくしたらフランスへ帰るともいっていた。  私にそっちの気がないのを察知して、教授は諦めたように代金を払ったので、彼女の待つアパートへ無事に帰った。 教授とは、以後それっきりになってしまったが、あの日のアドバイスは深く心に沁み、当時はイラストレーションにサインする習慣はあまりなかったが、それから私はイラストレーションにもサインやマークなどをできるだけ付けるようになった。

その後、KFSから今度は有楽町のガレリア・グラフィカで三人展をやらないかと誘われた。メンバーは橋本治さんと林正巳さんと私だった。 橋本さんは東大出身で、在学当時に、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というキャッチコピーの東大駒場祭で注目されていた。その後はイラストレーターから作家になり、毛糸の編み物も得意なユニークな人だ。 林さんは細密で独自の絵を描く画家で、聾唖のため筆談だったが、後に渡米して、現地で知り合った女性と結婚した。その後はその奥さんと大阪で暮らしている。

それから、KFSのグループ展の時のメンバー八人で、銀座のギャラリー・デコールで1971年にグループ展をした。BANGというグループも結成し、月に1枚の絵を描き、大判のグラフィックな同人誌にまとめ発行した。 メンバーは、池田拓さん、今井俊展さん、小幡堅さん、小松慶司郎さん、詩人の清水哲男さん、下谷二助さん、高氏雅昭さん、そして最年少の藤本蒼だった。 その同人誌には、イラストレーターの真鍋博さん、詩人で評論家の清水昶さん、イラストレーターの井上洋介さんの寄せ書きも掲載され、後年私の個展を開催して下さるギャラリー・デコールの西山博社長とも、その時に知り合った。

BANGにも出品したのだが、その当時、私は過激でエロチックな絵を実験的に描いていた。そんな絵が注目されたのかどうかはわからないが、矢崎泰久さんが編集長を務めていた『話の特集』誌の計らいで、初めて私だけの展覧会が渋谷・西武デパートのアバンギャルド・ショップで開催された。 といっても画廊ではなく、デパート内のショップの壁面に藤本蒼イラストレーション展として実現した。それを見た美術出版社の方から電話があり、現在は美術ジャーナリストの臼田捷治(野澤 朔)さんに取材され、美術専門誌『デザイン』に写真と共に掲載された。 また当時は毎月、放送批評懇談会編の『放送批評』誌の表紙イラストとデザインを1978年まで制作し、放送批評懇談会の仕事では高橋妙子さんに大変お世話になった。

そして、1972年講談社編の『年鑑日本のイラストレーション』が創刊され1989年に廃刊されるまで以後毎年イラスト作品が収録された。 その年鑑がドイツのフランクフルトで開催された国際ブックフェアに展示され、その中の私の絵をご覧になったドイツ・パルドン誌のピーター編集長から国際郵便が私へ届き、私の絵が1975年の『パルドン』誌に連載されるようになり、さらにその絵を見たドイツのロックグループBULLFROGの5人メンバーのひとり、セバスチャンさんから国際郵便で依頼状が届き、1976年「BULLFROG」のポスターとLPカバーになった。

2003年頃、BULLFROGのファンのマルコさん(Mr.Marco Jacoby)という若いドイツ人から突然電子メールが届いた。マルコさんはウェブデザイナーで、インターネットで私の名前を検索し探しだしたそうで大変驚いた。 マルコさんは当時流行したブルフロッグの事柄を熱く語り、メンバーのボーカルがポルシェの事故で亡くなったことなど様々な情報をメールで知らせてきた。 私も当時、日本で流行していたグループサウンズの追っかけの人の話などを思い出し、マルコさんを身近に感じて同感してしまった。  そのメールのやり取りのうちに、マルコさんの友達のアンさんも紹介され、語学に堪能なアンさんは私のサイトの怪物伝説ページの日本語を英訳してくれ、さらにマルコさんは自分の飼っていた名前がSUSIという猫の絵を描いてほしいと私に依頼、自分の愛猫の名前に寿司とつける日本贔屓に感激し、快諾した。  東日本大震災の時は、放射能を心配したマルコさんから電子メールが届き、ドイツに私たちの住む家を用意したから、すぐに家族を連れてドイツへ避難するように勧めてくれ、深い友情に大感激し心から感謝した。現在も彼らとはFacebookで交流を続けている。

こうして後々振り返ると、ものごとは連鎖反応的につながって展開していくのだなあ、と思う。 あるひとりの人と知り合い、そこからまた別の人を紹介され新しいつながりが生まれる。人生とはそんな幾つもの出会いのプロセスが織りなす、複雑怪奇な迷宮の中の出来事なのかもしれない。

(つづく)

BULLFROGの拙作絵ポスター

1976

1976,Copyright(C)2013 AoiFujimoto.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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