画家か、イラストレーターか

経堂のアパートは都内なので、いろんな人が来てくれた。『婦人公論』の編集者の田中秀直さんがタクシーで乗り付けて、『婦人公論』誌のイラストの依頼をされたり、当時「初恋・地獄篇」という映画を監督された映画監督の羽仁進さんが、喜美子さんと一緒に性教育映画に使う絵を依頼しに来てくれた。  そして松原壮夫さんの依頼で、私が鉛筆で描いた絵を松原さんがデザインした天井桟敷レコードの「初恋・地獄篇」のポスター絵を描かせていただいた。

その他に、新書館の著書の絵でお世話になったフランス文学者の竹内健さんと、現在日本芸術院会員で歌人の馬場あき子さんが目黒能のポスターデザインを依頼しに来た。  竹内さんと馬場さんはその立派な肩書きの割には大変気さくなお人柄なので、とても親しみを感じてしまった。お昼になり、カレーライスと善哉をお出しすると、その組み合わせが面白いと竹内さんが喜んでくれた。  江東区の大島団地で目黒能の関係者が集まり打ち上げの会をしたが、その際、教師夫婦の馬場さんたちと一緒に電車で行った楽しい記憶がある。  後年、竹内さんに西伊豆の海水浴に誘われたが、忙しくて参加できず申し訳なかった。 目黒能のポスターは、革新的なイメージにしたいと日本の伝統を感じさせる文字レタリングを融合させたデザインで全て手描きに仕上げたが、評価は極端に分かれたようだった。

1970年から、話の特集社の『話の特集』誌にイラストレーションをたびたび描かせていただいたが、創刊当初は作家の邱永漢さんの出資だそうで、一番最初の編集部は神宮前のセントラルアパートではなく、渋谷の別の白い小奇麗なビルへ呼ばれて行ったような気がしている。編集長は矢崎泰久さんで、様々な有名人が掲載され話題になったが、最初は返本続きであまり売れなかったそうだ。  その『話の特集』に寄稿していた音楽評論家の田川律さんから、フォークの神様といわれた岡林信康さんのソングブック「俺らいちぬけた」のデザインを依頼され、イラストレーションとデザインは私が制作し、藤井くんに歌詞のレタリング部分を手伝ってもらった。  田川さんとは新宿の高野フルーツパーラーで待ち合わせたが、そこで当時『週刊朝日』の編集者だった川本三郎さんと先に打ち合わせされていたことを憶えている。

後年、中経出版の『近代中小企業』誌で邱永漢さんのページのイラストレーションを連載させていただいた時は、当時の『話の特集』を思い出しながら描いていた。矢崎泰久さんの弟の矢崎泰夫さんも父親のあとを継いで日本出版社を経営し、コミック雑誌の表紙イラストレーション連載で後年大変長い間お世話になっている。

それから、竹内健さんに紹介され芸術生活社の『芸術生活』誌の扉ページに掲載される目次絵を一年間毎月連載で描き、その原画を中心として銀座にある西山博さんのギャラリー・デコールの画廊企画で、1973年に藤本蒼 個展が開催された。当時、まだ高校時代の油絵道具を持っていて、それを使って描いた油絵だった。  また、池袋西武デパートで開催された写真家の沢渡朔さんの「アリス展」に「私のアリス」という油絵二点が招待出品され、西武側が額装までしてくれた。  そして、竹内健さんの計らいでギャラリー銀座三番街でのグループ展「神々の饗宴」に、二紀会の画家の山本貞さんらとともに、私の油絵が招待出品された。

当時、西山さんは私を画家としてプロデュースしようとされておられた。西山さんは、イラストレーターから写実画家になった野田弘さんのように、デパートで売りやすい写真のような写実的な花の絵や風景画などを、どんどん描くように勧めてくれた。しかし、見たままを写生する写実的な絵は私の本意ではなかっため、アートとしては幻想的な油絵を描いていた。  その時から私の油絵を買い続けてくれたコレクターは、有名な洋画家の林武さんの息子の林滋さんだと、後年になって個展会場で林さんに初めてお会いして知った。それまで、西山さんは私の絵のコレクターの名前などは私に一切知らせなかったので、私のコレクターが誰で、どのくらいの数いたのか全く知らなかった。

画廊ビジネスの話になるが、このように画廊が全ての費用を負担して、一人の画家の作品を展示する方法は画廊企画の個展といい、他に画家自身が画廊賃料や案内状などの宣伝費などの全ての費用を出して、自分の作品を陳列展示する展覧会の二通りがある。  出版の仕事との一番の違いは、当然だが画廊で売った絵は絵描きの元へ戻ってこない。作品が誰かの所有物になり、それがオークションなどで売却されれば他の所有者の所蔵になったり転々とする。

イラストレーションの場合は、印刷されれば原画はまともな出版社なら後日丁寧に返送してくれる。最近のパソコンでデジタルで描いたイラストレーションはデータとしてネット経由で出版社へ送信され、原画としての物ではないので返却の必要もなく、最近のジクレー版画はデジタルの複製アート作品だから、デジタルのイラストレーションと同様に原画という物はない。

画廊で絵を売るとき、画廊企画の場合は画廊が展覧会前、すでに見込み客に販売活動をして展覧会後に画家と利益を分けて清算するが、画家が画廊を借りて作品を売る場合は、売れた代金は全て画家のものになるが、売れなければ利益はない。  私の個展は今まで全て画廊企画で開催されたが、西山さんとは個展開催前の作品制作中の時から銀座の画廊へ行き、月々前金でいただき制作進行具合を報告していた。  それにしても油彩は乾きが遅く、一枚仕上げるのにも一ヶ月ほどかかり、イラストレーションと比べると制作生産スピードが桁違いに遅かった。

バブル期も去った頃、西山さんがデパートでの販売から手を引き、画廊の仕事も辞めなければならなくなった時しみじみと私に語った。 「あおいちゃんは、イラストレーションの仕事も平行してやっててよかったよ。私が面倒みてた画家だけでやってた愛知芸大卒業の人たちは、今食えなくて困っているよ。それにあおいちゃんの場合は、作品のほとんどがイラストレーションの印刷物として残っているが、彼らの場合は作品その物を売ってしまったので、散逸して残っていないんだよ」

後年、伊豆の池田21世紀美術館で開催された久里洋二さんの個展会場で、画家の大島哲以さんにお会いし、大島さんを私の車で駅までお送りする途中、大島さんの絵は団体展に出品するために百号以上の大きなサイズばかりなので、家での絵の保存が大変で、知人に預けぱなしになっている絵もあり、絵の保存管理の難しさを話しておられた。  そして『芸術生活』に掲載された当時の私の絵に、ご自身の作風が影響されたといわれて私は大変に感激した思い出がある。ちなみにイラストレーションの原画サイズは一人で持ち運びできる小さいサイズばかりである。

『芸術生活』誌のおかげで縁が切れたと思っていたアート魂が、私の心に再び灯を点したようで気持ちの高ぶりを押さえ切れず、そのままアートの道へ向かおうかとも考えたが、イラストレーターの仕事は依頼があって描き、依頼主や広告主から画料が入る見込みがあるが、画家は依頼などはなく自分の芸術のために描き、売れるかどうかはわからない。  画家かイラストレーターかどちらを取るか、迷い込んでしまったが、生活のために、やはり画家の方を断念せざるをえなかった。

私は徹夜仕事ばかりで昼夜が逆転し、駅の方へ朝いっせいに向かうサラリーマンの姿を窓から眺めながらカーテンを閉めて、寝床に入る有様だった。  そしてその時、私は他の一般の人達とは違う生き方をしているのだと自覚した。  同じイラストレーターでも企業に属したり、仕事の事務所を別にもって通う人が多いが、私は家族といつも一緒にいて彼女と子供と動物たちを身近に見守りながら、自由業として仕事を続けたいと考えそのようにしてきた。何て幸せなことなのだろう、はっきりとそう自覚した。

(つづく)

目黒能のポスター B2(51.5X73cm)

1971

1971,Copyright(C)2013 AoiFujimoto. All Rights Reserved.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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