米軍ハウスの住人となる

世田谷経堂の石和戸荘は、玄関脇の水槽に熱帯魚や鯉を飼い、その横のバケツに花を生けていた。猫と手乗りインコとカナリヤとウサギまで屋内で飼っていて、夜に猫は鳥に悪戯してトリカゴをひっくり返すという、大変騒がしい部屋となっていた。そこに子供も増え、ここももう狭く感じてきていた。

当時、『平凡パンチ』誌で若い日本人が郊外の米軍ハウスで生活している記事が掲載され、その広々したアメリカ風の生活環境に私たちも憧れた。  都心にそのまま居ては子供二人の遊び場もないし、猫や鳥やウサギや熱帯魚なども飼っている私たちは新天地を求めて、東京都昭島市の米軍ハウスへ思い切って転居した。  都内の電話番号でなくなるため、BANGの友人小松慶司郎さんが「都心から郊外へ引っ越せばもう仕事がこなくなるよ」と忠告してくれたが、家族のためには仕方がなかった。  ある日、都内に住んでいるBANGの今井俊展さんの家族も遊びに来て、広い居間に大きなソファとベッドも置いていたので、今井さんの子供達がそのベッドの上でトランポリン遊びをして喜んでいた。今井さんは子供達をたしなめていたが、やはり、米軍ハウスの広々と開放的な雰囲気が今井さんの子供達にも感じられたのだろうと微笑ましく思った。  ここでは阿佐美の友達の新島くんを通じて古川タクさんご夫婦も遊びに来て、奥さんがタバコケースを置き忘れて帰り、それを後で送った記憶もある。

転居して直ぐに左の隣家の米兵ゲイリー・エヴントさんと日本人の奥さんの京子さん夫婦が親しく付き合ってくれ、ゲイリーさんの庭でバーベキューの歓迎会をしていただいた。  ところが肉のサイズが半端ではない大きさで、一枚食べれば私には十分だったし、肉嫌いの彼女はトウモロコシなどを食べていたので、それを見たゲイリーさんはバドワイザーの瓶をラッパ飲みしながら何か英語でしゃべり、京子さんがいちいち通訳して「遠慮しないで、もっと食べなさい」と勧められちょっと閉口した。

ゲイリーさんはコーンパイプをふかしながら、私をチェスにも誘ってくれるが、私は子供の頃から将棋で遊んだことがなく、チェスのルールも全くわからないまま、ゲイリーさんの見様見真似でなんとか相手をしていた。  そんな私を気に入ってくれたのか、ゲイリーさんは私に立派なパイプセットをプレゼントしてくれ、アンフォラなどの葉タバコ入りの袋や葉巻などもどっさりくれ、米軍基地(ベース)の店からジョニ黒やジョニ赤の角瓶などもゲイリーさんは買ってきていつも一緒に呑んでいた。それから私は芳香なパイプの煙とアルコールをたしなむようになってしまった。

私たちは広い玄関で沢山の水槽を並べて熱帯魚を飼い、家の中で猫や庭で犬も飼い、オウムをカゴに入れて庭の木に吊るし、鶏とウサギも庭で放し飼いするようになった。  そんな動物たちはベースのランドリーゲート前のペット屋で買った。ゲイリーさんたちと付き合って、普段は入れないベースの中にもゲイリーさんの車で出入し、ベースの倉庫のような店にも行った。

左隣のゲイリーさん夫婦や、右後ろ隣のハワイから来て、なんでも食べてしまうシネッチョという名のダックスフントを飼っている陽気な家族や、後ろの家のフィッシャーさんや、お向かいの女の子のジャッキーとキャッシーとその隣の男の子のアンディーと私の二人の子供たちはいつも米語と日本語をとりまぜた珍妙な言葉で遊んでいた。  その米軍ハウスでは私にもゲイリーさんの他に知り合いができ、現在中京大学教授の幸村真佐男さんが楽しそうに笛を吹きながら遊びに来たり、現在成蹊大学客員教授の坂井直樹さんなども近くのハウスに住んでいて、熱帯魚の水槽や猫の事などで付き合いが出来た。

この米軍ハウス時代に、美術出版社の『みずゑ』誌に美術評論家の日向あき子さんの文により、多くの作品と共に私の紹介記事が数ページにわたり掲載された。  ある日、美術出版社の『みずゑ』誌編集長の宮澤壯佳さんが日向さんを連れて、フェアレデイZを運転して取材に訪ねてこられた。宮澤さんはダンディーな紳士で、後年、池田満寿夫美術館の館長をされていた時に私が車で金沢へ向かう途中、長野の池田満寿夫美術館で会い信州蕎麦をご馳走になった。

日向さんが、私が飼っている5匹の猫に大変興味をもたれたので、その猫の中から双子のバーミーズの一匹を差し上げ、日向さんの愛猫になった。  その後、日向さんの神奈川県麻生区の家に猫の爪切りなどの世話で、何度か訪ねたことがある。  日向さんは静かな印象の人で、一人暮らしだった。壁一面の大きな書棚の前の掘り炬燵のようなデスクで、タバコを吸いながら執筆されていた。  後年、緑が丘霊園の日向さんのお墓参りに行ったら、誰かがタバコをお線香がわりに供えてあった。

その米軍ハウスは国有地で、建物の権利は大家にあり、たくさんのハウスを管理する日本人の管理人たちが雇われていた。管理人たちはアメリカ人に貸すよりも日本人に貸す方が家賃の他に日本式慣例で礼金と敷き金を余計に取れるので、我々は簡単に入居できた。  その米軍ハウスの奥の方に大山団地があり、ゴキブリが大量発生しているという新聞報道が流れた。ある夜、キッチンの電灯を点けるとテーブルの上にゴキブリがたくさん群がり、いっせいにテーブル下の物陰に隠れるのを見た彼女は卒倒してしまった。  ついに我々の米軍ハウスにもゴキブリの大群が押し寄せ、私はここもそろそろ引き上げどきだと思った。    1975年には再び西山さんのギャラリー・デコールで画廊企画の個展を開催していただき、このままイラストレーションとアートの両方を続けられればと内心願っていた。西山さんには家を買うための保証人と頭金でお世話になり、個展の売りあげから清算できた。  建設会社の取引先銀行で銀行ローンを借りることになり、今までの掲載雑誌や貯金通帳を持参してローン交渉では苦労しながら、なんとか東京都武蔵村山市の玉川上水駅近くの4DKの建売り住宅を初めて購入し、米軍ハウスから引越した。

(つづく)

芸術生活社の「芸術生活」誌1973年6月号

1973

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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