プロのプライドと夢

無理して引っ越したものの、武蔵村山市の家には短期間しか住まなかった。  在来工法の家で、転居したての綺麗に磨かれた透明なガラス窓に、猫が庭へ走って出ようとして気付かず衝突していた。  しかし、家は綺麗だったが環境がよくなかった。しばらくしてから気がついたが、近くの汚水処理場から異常に多いハエがいつも飛んできた。  古い米軍ハウスではゴキブリだったが、今度は新築なのに家にはハエがたかり、洗って干した洗濯物もハエだらけだった。  それに、雨が降ると前の道路が水溜りになり、排水が逆流して路上のマンホールの蓋を持ち上げ吹き出るほどだった。

引っ越し当初から気になっていたのだが、家の前の公道のど真ん中に棒杭が立てられていて、車が通れないようにしてあり、なんだか異様な感じがした。  これは、突き当たりに面したT字路の家が市会議員か県会議員かで、車が飛び込むかもしれない不安から棒杭を二本立て通行止めにされて、何かのはずみで抜けて倒れても、市役所の職員が直ぐに飛んで来て元通りにして行った。  それに、近所の人達とゴミ収集場所などのことで、町内の付き合いも気楽だった米軍ハウスとは違い、窮屈で面倒なものになってきた。  彼女は買ったばかりの家なのに早く手放そうと考え、床のワックス掛けや掃除をまめにして、家を汚さぬように気を配り売りやすいように気をつけていた。

そんな都心から離れた玉川上水駅近くの4DKの建売り住宅に、『話の特集』の編集部にいた、石川誠之さんがセルフ出版のコミック誌の表紙イラストの依頼で訪ねてこられ、話の特集でなく驚き戸惑っている私にセルフ出版へ転職したと話されていた。  その後、セルフ出版は白夜書房と会社名称が変わるが、数年後して石川さんは次に日本出版社へ転職され、日本出版社でも同じようなコミック誌の表紙イラストを連載で描かせていただき、奇妙なことにライバル誌の表紙イラストを同時に毎月連載で20年くらいの長い間にわたり描かせていただいた。  そのうえ、白夜書房の森下社長のご好意で私の画集まで後年発行していただき、当時の私には長い間の安定収入になり大変感謝している。

当時、イラストレーターの友人がイラストレーションの表現スタイルを様々に変えて描きわける私をとがめるように、ひとつのスタイルでのみ描くべきだと忠告してくれた。  しかし、私は所詮イラストレーションは使い捨ての絵だと割り切っていて、依頼主のためならスタイルに全くこだわらず、どんな仕事でも本気で描いた。  私は芸術家ではなく、プロというのは生活のために描くと思っている。おかしないい方かもしれないが、プロにはプライドを捨てることも必要なのだ。  プライドがじゃまするようなエロいイラストレーションや、通俗的な絵の注文に私が戸惑っていると、「あんた、そんな絵は描けないんでしょ」と彼女にいわれ、何でも描くといっていた私が、そこで描けないとはいえないという、別のプライドをそそのかされて結局なんでも描いてしまう。  もちろん、反社会的で犯罪に関わる絵などは当然断り、自由に考える心が束縛される宗教と政治にもできるだけ関わらないように心がけている。  そうでない場合、仕事なら、嫌なことでも、苦手な分野でも、とにかく出来る限りなんでも描くと自分に決めている。

貧困と死など、人生の失望を見てしまうと仕事を選り好みするような贅沢なんていっておれない。  フリーランスとして生きるには、いかなる逆境でもつまらぬことにもくよくよせず、 心配しても始まらないことは心配せずポジティブに努力をしなければならない。  私は猫を見ていて思うのだが、生きる意義などなくても、生きているだけで価値があり、生きてさえいれば何とかなるのだと、プライドを捨てて誠心誠意で地道に生活していくことを決意した。

しばらくして、東京都青梅市に5LDKの新しい家を買い替えた。さまざまないきさつから、その家では私の両親と共に住むことになった。  いよいよ引越しを済ませ、転居したての時に電話局の手違いから、新居に電話がまだ入ってなく、慌てて電話局へ彼女が抗議していた。  都心から離れた私と仕事を繋ぐ手段は当時は電話しかなく、最先縁起の悪い不吉な予感がした。  大きく立派な家に住むようになると、仕事が入ってこなくなるのではと、よい事の後には悪いことが巡ってくるような、無意識にいつも感じている運命的不安が脳裏をよぎった。

青梅の家の一階は広い居間とダイニングキッチンなどがあり、両親の寝室の和室もあり、二階は私達夫婦の寝室と子供二人の部屋が二室に私の仕事部屋が一室だった。   その仕事部屋で、パルコ劇場のポスターを描いた。当時その真新しい仕事部屋に、米軍ハウスで食卓に使っていたテーブルの上に全版サイズの製図板を傾斜して取り付け、全体を黒くペイントして仕事机とした。  その机は現在の仕事部屋にもあり、その机に向かうと、米軍ハウス時代におぼえたパイプをふかしながら、そのポスターを描いた記憶がよみがえってくる。  シェイクスピアの喜劇を幻想的な人形劇にした作品で、その担当者の川本兼次さんは、自由に描いていいよといってくれ、ご自分の子供の事なども楽しそうに私に語っていた。後に川本さんから犀の絵を依頼されて、打合せに渋谷パルコへ伺ったこともある。

当時は他に、池袋の西武美術館で開催された「メディア・アート展」に招待出品されたり、西ドイツ・フランクフルトのPardon社の『Sonderband Vom Besten』という雑誌にも作品が掲載され、スイスのイラストレーション年鑑の『Graphis Annual』の1976年版と1977年版に作品が掲載された。  これは、突然ある日に国際郵便の依頼状が届き、その英文の手紙を知人に翻訳してもらい、承諾の手紙もタイプしてもらった。  その手紙と絵を撮影した4×5サイズのポジフィルムを同封して、国際郵便で相手に送った。これは以前、私の絵がドイツの『PARDON』という雑誌に掲載されたことから依頼されたのだろうと思っている。

私の感性や絵の雰囲気は、日本人よりも外国人の方が面白がってくれる。そんな心当たりが幾つもあり、そういえば以前にある編集者から、私の絵はバタ臭い個性があるといわれたことがあった。  もしかしたら、このGraphis Annualに掲載されれば、自分の絵が海外に受け入れられるきっかけになるかもしれない、と脳天気な私は世界にはばたく夢を見たのだった。

(つづく)

PARCO西武劇場のポスター

1977PARCO

1977PARCO,Copyright(C)2013 AoiFujimoto.

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aoifujimoto について

1947年石川県金沢市生れ。69年平凡パンチ誌で8Pのイラストレーション作品掲載。73年芸術生活社の月刊芸術生活誌目次絵12点連載。75年に澁澤龍彦著東西不思議物語毎日新聞イラスト連載。87年集英社文庫カバー血の本シリーズイラスト連載。97年画文集怪物伝説白夜書房刊。02年富里市制記念親子馬の銅像デザイン制作。10年富里市案内板と27回トミサトスイカロードレースTシャツのイラストデザイン制作。個展13回。
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